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ブログ10 天竜川と諏訪湖底の曽根遺跡

0.はじめに

諏訪湖についてまた調べています。今回のブログ(ブログ10)を企画したのは、昨年2020年9月20日に下諏訪町総合文化センターで開催された「星ヶ塔遺跡発見100周年記念トークショー」を聞いたことが始まりであります。星ヶ塔(ほしがとう)というのは、縄文時代に黒曜石(こくようせき)を掘り出した当地の遺跡の名前です。そうすると黒曜石のことをブログにするのが自然でしょうが、まだ私には情報量が不足しております。そこで、そのトークショーの中で出て来ました曽根遺跡(そねいせき)を題材にブログを書いてみようと企画しました。引用が多くありますが、それは青字で示しておきました。

 

1.諏訪湖の水は昔、山梨県経由で太平洋に注いでいた

当地にはエルシーブイ(以下、LCVと表記します)というケーブルテレビジョンがあります。御柱祭の映像量では他の局の追随を許さないと思います。また8月15日の諏訪湖上花火大会もライブで放映します。このような地域密着の放送局でありますが、その放映中の番組の中で私が注目しているものがあります。それは「散歩しながら諏訪湖に学ぶ」という15分番組です。諏訪の研究をされている方とLCVのアナウンサーとで、諏訪の魅力であったり謎解きを、諏訪湖畔を歩きながら紹介して行くという番組です。毎月1回、新しい番組が放映されます。
先日、諏訪湖と天竜川が話題になりました。「今は天竜川の水源が諏訪湖で、湖水の水が天竜川となって流れ出ているが、昔は山梨方面に流れ出ていた。」との話が出て来ました。私の頭の中は「???」状態でした。山梨県境に八ヶ岳が隆起して県境の標高が高くなってこの川が堰き止められ、諏訪湖の水が今の天竜川の始まり地点に向かうようになったという説明でした。

実はこの番組、地元の新聞であります「市民新聞」と連携・連動しており、活字でも情報を取ることができます。私は地学に詳しくないので新聞記事『諏訪湖に学ぶ(第2回)』をそのまま引用させていただきます。カッコ内は私の注釈です。
約250万~120万年前ころの諏訪地域は塩嶺(えんれい)火山岩類大量の噴出物が埋め尽くし、標高900~1000メートルのやや平坦な地形を形成していたと考えられている。その後、75万年前ころにかけて火山活動の中心が糸静線(糸魚川-静岡構造線)より東に移動し八柱火山群、霧ヶ峰火山群が活動。約50万年ころ以降に始まった八ヶ岳火山群の活動は、北八ヶ岳横岳の坪庭溶岩を形成した2300年前まで続く。
現在の地質学では、諏訪地域は八柱、霧ヶ峰火山群活動期の約80万年前ころにおきた糸静線断層群の「プルアパートベイズン」【平行する左横ずれ断層に挟まれた一帯が、ずれの方向に引き延ばされて沈んだ陥没地】としてできた盆地とされる。この断層群が盆地西縁の岡谷(おかや)断層群、東縁の諏訪断層群で、いずれも左横ずれ断層で盆地側に落ち込んでいる。
この盆地形成の過程で諏訪湖が生まれてきた。プルアパート開口・断層活動によってできた糸静線の峡谷に集まった水は当初、現在の釜無川(かまなしがわ、笛吹川と合流して富士川となる)方面に流れていた。約30万~20万年前、南八ヶ岳の古い山体崩壊で発生した「韮崎岩屑【にらさきがんせつ】流」などの堆積物で峡谷が埋まり、約20万年~18万年前に盆地内の流路が変わって諏訪湖と天竜川の形成があったとされる。

この記事と一緒に載っておりましたイラストもご覧ください。

 

2.天竜川は諏訪湖よりも先に存在していた川

実はこの情報を得る前に私は『川はどうしてできるのか』(藤岡換太郎著、講談社刊)という本の中で、次のような著者の仮説を読んでおりました。次のように紹介されていました。
・ 昔は信濃川と天竜川は繋がっていた。
・ その大河は、日本海側から太平洋に注いでいた。
この時も頭の中が「???」状態でした。

もう少し詳細にご紹介します。『川はどうしてできるのか』の第3部 「川についての私の仮説」 より引用してみましょう。
(伊那谷の)地元の地質研究者である松島信行さんによれば、天竜川は概ね地質時代の第四紀【いまから258万年前より新しい時代】にできたとみられるそうです。しかし、それ以前は、天竜川の前身がどこにあって、どのような変遷をとげたのかはよくわからないそうです。
源流とされている諏訪湖から下って、中央アルプス【木曽山脈】と南アルプス【赤石山脈】の急峻な山々を通って浜松で太平洋に注ぎ、さらに海底で天竜川底谷となって南海トラフの終点に至るまでが天竜川の全体像【図3-2】ですが、実はその間には、幾つかの不思議な構造が目につきます。そして、それらを組みあわせてみると、天竜川の源流が諏訪湖であるとはどうしても考えにくくなり、私の頭にはある途方もない仮説が浮かび上がってくるのです。

第1項によれば、約80万年前に諏訪盆地ができたように推測されています。よって天竜川ができたとされる第四期に諏訪地域には諏訪湖はなく、高原のような風景であったと推測できます。しかし伊那谷には諏訪湖を源流としない ”天竜川” が既に流れていたことになります。同書は善知鳥峠(うとうとうげ)に注目します。
長野県塩尻市にある善知鳥峠は中央アルプスの延長線上にある峠で、雨水を太平洋側と日本海側とに分ける中央分水嶺を構成する分水嶺の1つです。この峠より南側に降った雨水は天竜川へと流れて太平洋に注ぎ、北側に降った雨水は犀川(さいがわ)に流れて信濃川【長野県では千曲川と呼称】と合流し、日本海に注ぎます。分水嶺は公園になっていて、流れの分かれ目には標識が立っています。

Googleマップで善知鳥峠を調べてみました。標識の画像も載っておりました。この標識の北側に塩尻・松本方面があります。また南側が伊那方面であります。

地形を航空写真で眺めてみましょう。下の画像で、マーカーが善知鳥峠、その右(東側)にラグビーボールを斜めに置いたような形の諏訪盆地があり、諏訪湖が黒っぽく四角に見えます。「諏訪湖」という3文字が見えるでしょうか?
諏訪湖を含めた諏訪盆地と比較しますと、善知鳥峠の北側の松本平が非常に大きく見えます。善知鳥峠を越えた辺りから直ぐに土地が開けているというイメージです。今は日本海に注ぎます信濃川(の支流であります犀川)や姫川の源流が松本平を通っているのですが、川の上流域にしては不自然に土地が拡がっているように見えます。同様に伊那谷も、天竜川の上流にしては土地の開け方が不自然に大きく見えます。想像をたくましくすれば、昔の ”天竜川” は松本方面から伊那谷を経由して浜松で太平洋に注いでいたようにも見えます。

善知鳥峠の地盤の上昇が早かったために昔の ”天竜川” は山を切り裂くことができず、この峠で分断されてしまったというわけです。そして行き場をなくした諏訪湖の水が昔の”天竜川”に注ぎ始め、今はあたかも天竜川の源流が諏訪湖になっているように見えるということでしょうか?

 

 

3.曽根遺跡

当地に長く住んでいる私のような者は、諏訪湖は「八ヶ岳やそれに連なる周囲の山々の岩を削って流れる川によってだんだんと埋まって小さくなっている」くらいにしか考えておりましたでした。しかしホームページへの寄稿を通して当地のことを調べ、より深く知るようになりますと、もっと違った視点で諏訪湖を見ることができるようになって来ました。諏訪湖ができた頃、あるいはまだ諏訪湖が存在しなかった頃よりも更に前の時代まで遡りますと、当地は現在の地形とは全く異なるものであったということが容易に想像できます。

さて今度は、人類が諏訪湖近くに住み出した ”ついこの間” の縄文時代まで下ってみます。明治時代になりますと、 「諏訪湖の湖底に縄文時代の遺跡が眠っていること」 が発見されました。その名を曽根遺跡(そねいせき)と言います。場所は現在の諏訪市の行政区分になります。漠然とした言い方になりますが、JR中央東線の上諏訪駅、あるいはセイコーエプソン本社から諏訪湖側に向かって歩いた先の「湖底」を想像してください。例によりまして市民新聞の連載『諏訪湖に学ぶ(第1回)』より冒頭部分を引用します。

諏訪市大和区の諏訪湖岸から、約300m沖合の湖底に眠るとされる「曽根遺跡」。1908(明治41)年に湖底から矢尻が」引き上げられたのを機に、東京からも一流の研究者が調査に訪れるなど国内初の水中遺跡と注目を集めた。
「湖にくいを立てて人が住んでいたからに違いない」「単に地滑りや地盤沈下が起きただけだろう」。湖底から矢尻が出土した背景については、新聞紙上でも話題になるなど多くの研究者がさまざまな説を唱えて”曽根論争”に発展したという。

今では国内に何ヶ所も水中遺跡があると聞いておりますが、 ”水中遺跡” と言われた第1号が諏訪湖の曽根遺跡であるようです。TV等で海外を紹介する番組で、小舟を交通手段とした水上生活者が紹介されることもありますのでイメージが湧くと思います。縄文人の中にも水上生活をしていた部族がいたのではないかというのが上の説明文の最初の説です。つまり湖に杭を立てて縄文人が暮らしていたという説になります。

ところで諏訪湖は今でも氾濫しています。大雨で当社も水害に遭ったことがあります。縄文時代にも洪水があったと推測できます。地滑りが発生し、矢尻等の道具が諏訪湖に押し流されたのではないかというのが後の説です。あるいは集落が地盤沈下し、諏訪湖の水が押し寄せてきて湖底になったという可能性も示唆しています。

上に紹介した説は、まだ憶測でしかありません。曽根遺跡の遺物は湖上から舟で引き上げたものであり、諏訪湖の水を引いて調べたものではありません。潜水して調べたことも1回あるそうです。よってこの遺跡の全体像は、現在でもまだはっきりしていません。諏訪湖の歴史は短いというものの、私は諏訪湖が形を変えながら現在の形になったということを考えますと、「縄文人が矢尻工房を諏訪湖畔に設けていて、それが水没したという考えはどうだろうか?」いう仮説を持つようになりました。あくまでも想像の話です。どのようにこの仮説を検証したらいいのか、その術も分かりません。

諏訪市博物館のホームページで、曽根遺跡の出土品を画像でご覧いただけます。トップページの右側にバナーがいくつも並んでいます。そこから「なんでも諏訪百科」をクリックしていただき、現れた検索窓で「曽根遺跡」と入力してください。

 

4.地元の考古学者、藤森栄一のこと

藤森栄一のことは、国語の教科書に出ていたこともあり、私は10代後半から知っておりました。地元の考古学者でありますので、本ホームページでも取り上げたい人物でありました。しかし、どこでどのように紹介したらいいのか、迷っておりました。1本のブログにまとめられれば良いのですが、私にはその力量がありません。
藤森栄一は、本ブログの第0項に登場します「星が塔遺跡」についても、第3項の「曽根遺跡」についても研究されております。その詳細について、ここでご紹介することができません。

代わりと言ってはいけませんが、「藤森栄一賞」の記事が市民新聞に掲載されておりましたので、ご紹介します。当地でこの考古学者の名前を冠した賞がどのように紹介されているのかを読んでいただけたら幸いです。字がにじんだようになっていて恐縮です。
この賞については長野県考古学会のWebsite からもご覧いただけます。トップページを開いていただきますと、左側に「カテゴリ」の欄があります。そこから「藤森栄一賞」をクリックして見てください。

 

5.湖浄連40周年

仮に将来、曽根遺跡をきちんと調べようと、水を抜いて発掘しようとしたとしましょう。八ヶ岳やその他の山々の岩肌を削った川が流れ込む諏訪湖ですので、土砂の堆積は仕方ないと言わざるを得ません。しかしゴミやヘドロのような泥が堆積していたらどうでしょう?縄文人が生活していた時代は、諏訪湖の歴史の中では最も新しいページのようなものです。それを現代人がゴミや泥で埋めてしまうというのは、あまりにも悲しい事です。諏訪湖を先ずは綺麗に保つことが私たち地元住民の責務です。いつの日か後世で、曽根遺跡が発掘されるのを待ちましょう。

ところでブログ7『諏訪湖と湖岸清掃』で諏訪湖浄化協議会(略して湖浄連)をご紹介しました。2020年で40周年を迎えたとの情報が届きました。コロナ禍の中で、人が多く集まって密になるようなイベントは中止になりましたが、展示会が催されました。本ブログでは、そのことを紹介して閉じたいと思います。

 

 

 

 

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