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ブログ13 下社木落しと上社見立て

0.はじめに
2021年(令和3年)は諏訪の御柱祭の前年となります。5月には下社の伐採が行われました。このことは本ホームページのブログ11『コロナ禍での諏訪大社下社の御柱伐採』で取り上げました。翌月の6月には、上社の見立てが行われました。いずれの行事も、新型コロナ感染対策で人数を絞ったり、その他の条件を付与して実施しております。2022年(令和4年)の本祭り(御柱祭)に向けて準備が進んでいることを物語っております。

本ブログは諏訪大社上社の見立てをご紹介したいという想いから企画をしましたが、下社の氏子が書いているものですから、情報源は地元新聞の報道となりますことをご了解ください。

過去に書きましたブログでも申し上げましたが、諏訪大社は上社と下社で分けて考えた方が理解が早いと思います。2つの神社、似ているところが多くありますが、異なることもあります。御柱祭もその考え方の流れで、上社と下社とを分けて理解していただきたいと存じます。本ブログの前半は、私のボランティア・ガイドの体験からそのことを語りました。地元の読者には当たり前のことでありますが、観光客の視点で読んでいただきますと幸甚です。

なお画像は主に、地元の観光協会が発行したパンフレットより転用しています。したがいまして、過去何回かの御柱祭りの画像が入り混じっておりますことをご承知おきください。中には、私が入手した生写真も入っております。

 

1.4社まいりと木落し坂
日本各地のいろいろなお宮を巡っておられる人たちの中には、ご朱印を集めておられる皆様が多いように推測します。諏訪大社には4つのお社がありますので、4社を巡れば4つの御朱印を得ることができます。少し急ぎの行程になるかと思いますが、この4社まいりは1日でも可能です。諏訪大社のホームページに四社まいりの案内 (公式ページより「四社まいり」とメニューを選んで進んでください) が出ていますので、参考にしてください。

観光の第1のポイントは、これら4社の呼び方です。諏訪大社は大きく上社と下社に分かれ、それぞれが2つのお社で構成されます。上社(かみしゃ)は前宮(まえみや)と本宮(ほんみや)、下社(しもしゃ)は秋宮(あきみや)と春宮(はるみや)です。伊勢神宮の要領で本宮を”ほんぐう”と呼ばれる観光客の方が稀にいらっしゃいます。そこで、全部の固有名詞に読み仮名を振っておきました。

ところで御柱に興味のある観光客の方は、下社木落し坂まで足を伸ばしてくださいます。観光の第2のポイントは、木落し坂が2箇所あるということです。観光客の皆さんが目当てにしておりますのは、下社の木落し坂です。木落し坂の上にせり出した御柱は、地球の重力に引かれて落ちようとします。これに対抗して、御柱の後ろに取り付けた追い掛け綱が引っ張り返してバランスを保っています。先頭には、命がけの男たちが御柱にまたがって乗っています。御柱がせり出すに従い、先頭の男たちは木落し坂の空中に止まって行きます。柱を引っ張って止めている追い掛け綱を斧で切ると、空中に留まっていた男たちは一気に木落し坂に着地します。その衝撃が過ぎると、今度は御柱が木落し坂を「自由落下」して行きます。行き先は、神のみぞ知るというやつです。

一方の上社にも、宮川の方向に向かって落ちて行く木落し坂があります。こちらは曳行で乗っていた人たちがそのまま御柱と共に下りて行きます。

下社木落し坂は春宮から約3Kmです。秋宮からでも春宮からでも、国道142号線(旧中山道)で和田峠方面に向かっていただきます。砥川(とがわ)と並走しながら走って行きますと、右側に注連掛(しめかけ、山出しを終えた御柱を安置しておく小高い丘)が見え、更に進むと右側に木落し坂が見えます。更に100mばかり進んで右折します。Uターンするような形で県道199号線(県道八島線)に入ります。200mばかり坂道を登ると、立派な松の木が目の前に現れます。「追い掛け松」という名前が付いています。そこから砥川に向かって下ります坂が、天下の木落し坂になります。

 

2.観光客への質問1: 木落し坂を何本の御柱が落ちますか?
新型コロナウイルスの感染発生前、私は下社木落し坂でボランティアの観光ガイドをやっていたことがあります。車で訪れる方が圧倒的に多く、そのナンバープレートから大よそ、どこからお見えになった観光客であるのか推定できます。全国津々浦々から観光客が押し寄せてやって来るような場所ではありません。自家用車がパラパラとやって来ます。通常ならば、西は神戸、東は茨城辺りまでを想定しています。そこよりも遠い観光客がお見えになった時には、「遠いところをよくいらっしゃいました。」と声掛けしてしまいます。県内からお見えになる方は当然多いものの、県内と同じくらいによくお見えになるのは名古屋ナンバーと山梨ナンバーの人たちです。

さて観光客の皆さんの話を聞くうちに、勘違いあるいは誤解されている人たちが結構多いのに気づきました。「御柱に興味がありそう。」と直感した観光客には、次のような質問をします。「木落し坂では何本の御柱が落ちますか?」です。「エエ~」というリアクションでこの質問に食いついて来られましたら、話が盛り上がること間違えありません。「エエ~」と言うのは、ご本人は当たり前と思っていたことを改めて聞かれて動揺しているからです。この質問に対し、圧倒的に多い回答は「1本」です。

NHKを筆頭に、最近は御柱祭が全国放映されることが多くなりました。木落しの放映は山出し最終日、秋宮一(あきみやいち)の柱が一般的です。テレビで1本の御柱が落ちるのを見ているので、1本しか木落しをしないと勘違いするのでしょう。またよく口にされるのは、「木落し坂はこんなに狭いのですか?テレビで見るともっと広いように思っていました。」というセリフです。そこで私は、「来てよかったですね。」と声掛けします。

第1の質問に対し、「答は8本です。」と私が言うと、1本と答えた観光客のグループは大いに盛り上がります。「どうして?」と考え始めている様が見て取れます。これからが解説です。「木落しを終えた御柱は、観光客には全く注目されなくなって国道142号線旧道を通って注連掛け山に向かいます。そこで山出しはおしまいで、約1ヶ月間、安置されます。5月の連休明け、下社の里曳きが始まります。注連掛け山を出発し、4本が春宮で建て御柱をされます。更に春宮の境内を通った4本が秋宮で建て御柱となります。だから全部で8本が木落しをしないと、春宮と秋宮の境内に4本ずつ建ちません。」

お宮の境内の四隅に御柱が建つという知識は多くの方が持っておられるようで、ここで大部分の観光客の皆さんは納得となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

3.納得できない観光客には、それなりの言い分
第2項の説明で納得されない、「御柱マニア」の方々がいらっしゃいます。1つのグループは、「木落しは1日で行うはずで、8本を1日で落とせるはずがない。」という理論派の方々です。

ちょっと時間配分を考えてみましょう。木落し坂を駆け下りる時間はほんの数分です。その前の準備に時間がかかります。意外と知られていないのが、落ちた柱の姿勢を整えて再び曳き出すまでの時間です。道路(国道142号線)上は観光客を始め、人混みでごった返しています。木落しを見たので帰ろうとする人たち、次の木落しを見ようと席取りする人たち。そんな中、道を譲っていただかないと引き綱を道路上に伸ばせません。引き綱に氏子が付いて初めて、御柱を止まった位置(落下点)から動かせるのです。準備時間は主催者側である程度予想ができますが、この曳き出し再開までの時間が読めないのです。前の御柱が木落し坂から「退場」しないと、次に落とす柱の準備ができません。だから1日に落とせる柱の数は現在の方式ですと、最大で3本となります。具体的には、山出し1日目に3本、2日目に2本、3日目に3本が落ちます。

木落しを3日間やっていることは、県内にお住みの方はテレビで毎回見ているのでご存知です。県内のどの放送局も、木落しは必ずニュースで、3日間流します。8本のうちどの柱の木落しが一番良かったか、そのようなことが県内では話題になります。ところが全国ネットの放送で総集編のようなものを見ていると、なかなか3日間の木落しが想像できないようです。

2つ目のグループは、「木落しは4本」と主張する観光客の皆さんです。なぜかというと、「秋宮や春宮に行って境内に建っている御柱を見て来たが、拝殿の左右に2本しか建っていなかった。」と現場主義での指摘をされます。建っている御柱の近くまで行けるのは、下社の場合、一の柱と二の柱の2本しかないのです。三の柱と四の柱の建っている場所は拝殿の後方に当たり、私たち氏子でも建て御柱以外の場面で立ち入ることは許されておりません。だから境内に行きましたら、一の御柱の後方をよく見てもらわないと四の柱が見えません。同様に二の柱の影に三の柱が確認できるはずです。「境内の四隅に4本の御柱」という知識はお持ちですが、ご自身の目で確認した現場の光景が当然優先されるようです。「神楽殿を過ぎて拝幣殿の前に立ちますと、向かって右側に一の柱、これが一番太い御柱です。左に二の柱、これが次に太い柱です。この奥の方に三の柱があり、近くに寄ってみることができません。同様に一の柱の奥に四の柱が見えます。四の柱が最も細く、この配列と太さの順番は秋宮も春宮も同じです。」この話をして一件落着です。旅程もあり、もう一度秋宮または春宮に行く予定のない観光客の皆さんは「ああ~、残念。三と四の柱を見られなかった。」と声を上げられます。

このようにして「誤解」を解いてあげることが、ボランティア・ガイドの存在だとも思っています。

 

4.観光客への質問2: 木落し坂までどうやって柱を運んで来ますか?
時間的に余裕のある「御柱マニア」の観光客の皆さん向けに次は、「どうやって御柱をここ、木落し坂まで運んで来ますか?」という質問を用意しています。地元の人たちには当たり前のことが、意外と受ける質問です。

最も多い回答は「コロの要領で引っ張って来る。」です。「トレーラーに載せて運んで来る。」も、無視できない回答です。樅の大木に綱を付けて道路の上を人力で引っ張って運んで来るなどという、余りにも原始的なやり方が現代に残っているとは考えることができないようです。

「御柱祭は諏訪大社の神事の一つです。昔からあるお祭りで、私たちはその原型を残そうと努力しています。」と説明します。「多分、日本中に御柱祭と同様なお祭りはあったのではないかと推測されます。たまたま長野県に多く残っているお祭りで、諏訪の御柱祭が特に有名になっているのだと思います。」と続けます。実際のところ、県内からお見えの観光客から、「私たちの近くにも御柱があります。ただ、諏訪の御柱とはだいぶ違っています。」というお話を聞くこともあります。このように本ブログを書いております私も、諏訪以外の御柱について余り情報を持っていません。

ここまで来ますと、何を言っても信じていただけます。「私たち諏訪人は縄文人の末裔で、その文化を守っています。」などと説明します。正直、まんざら嘘ではないのではないと私本人は思っています。あるいは「御柱が書物に登場するのは平安時代です。大和朝廷が諏訪を支配下に治めたという認識の証拠です。当然、大和朝廷の前の時代から御柱またはその原型のようなものがあったはずで、文字のなかった時代のことはなかなか証拠を示すことができません。私たちが残したいのは、ご先祖様たちがやっていたであろうお祭りの原型、あるいはそれに近いものです。」というような話をします。地域のことを一生懸命に考え、地域の文化あるいは伝統芸能を守ろうと考えている観光客の人たちは「諏訪は素晴らしい、頑張って!」と勇気づけてくださいます。

最後まで残ってくださった観光客の皆さんには、私からプレゼントを差し上げます。と言っても最後の質問です。「木を引っ張って運んで来るということは、その木を切り倒したところがあるということになります。そこはどこでしょう?」これに答えてくださる方は、もうほとんどいなくなっています。木落し坂の上に立って振り返りますと、「追い掛け松」が威風堂々と立っています。その遠方に、霧ヶ峰が見えます。その諏訪湖側の中腹、東俣国有林で8本の樅の木を切り倒すのです。

観光客の皆さんのリアクションは、「じゃあ、上社の8本の御柱はどこから切り出すのですか?」という質問になります。このブログを進めるにも重要な質問です。「上社は八ヶ岳の御小屋山から切り出します。」と説明しながら、御柱祭の地図を見ていただきます。左の画像ですが、ブログ3『諏訪の御柱、本見立てが中止になりました』に登場するものと同一です。したがって私の説明も繰り返しとなってしまいます。よろしければ、ブログ3をご覧ください。これで、上社と下社は別物ということが完璧理解となります。めでたし、めでたし。

 

 

5.上社の御柱御用材の伐採場所
ところで上社の御柱御用材を伐採する御小屋山ですが、伊勢湾台風 (たとえば Wikipedia のトップページより「伊勢湾台風」で検索してみてください) で御用材に使われます樅の木がだいぶ倒れてしまったそうです。昭和34年(1959年)発生の台風とのことですが、私も幼少の頃、父に山に連れて行かれ、祖父の植樹した木がかなり倒れてしまったという説明を受けたことがあります。中京方面から見えられます観光客の皆さんは「伊勢湾台風。」と言いますと大体の方が理解されます。

実は平成10年(1998年)の御柱に使われた御用材は、下社も上社も東俣国有林から伐採しています。私だけでなく下社の氏子の皆さんは、「御柱の度に、上社と下社合わせて16本の樅の木を切って行ったら、いつまで御用材が供給できるであろうか?」と心配になったはずです。結局、上社の御用材を下社が提供したのは、このときのみでした。伊勢湾台風が諏訪大社の社有林に決定的な影響を及ぼすまでに30年以上かかった、という計算になります。

それでは以下、上社の御用材の調達場所を一覧にしてみます。なお≪  ≫内は長野県内の地理のイメージ作りのために用意しましたので、参考程度に見てください。

御柱年 上社御柱御用材調達場所
平成10年(1998年) 東俣国有林≪下社≫
平成16年(2004年) 立科町町有林≪白樺湖方面≫
平成22年(2010年) 立科町国有林≪ 〃 ≫
平成28年(2016年) 辰野町横川国有林≪天竜川、塩尻市方面≫

 

諏訪大社は令和元年(2019年)12月20日、次回(令和4年)の御柱御用材は本来の調達場所である御小屋山より切り出すとの発表をしました。北島宮司の会見の模様が地元新聞に掲載されましたので、画像で転載します。「細くてもいい、このまま御小屋山から離れた場所で伐採を続けていると、若い人たちは本来の伐採場所を忘れてしまう。」という危機感があったと聞いています。当然のことながら、この時には新型コロナウイルスの発生を誰も予見できていませんでした。

それから1年半が経ち、今年令和3年(2021年)6月、人数を制限しながら上社の御柱御用材の本見立てが行われました。気になる御用材の太さですが、綺麗に揃った8本が選ばれたようです。新聞記事に掲載されていた目通り周囲の寸法をグラフにしてみました。横軸は、原点側が今回見立てた8本の御用材です。右に行くほど古い御柱となります。

下社の御用材は既に伐採されております。下社の御用材の太さ(目通り寸法)を知りたい方は当ホームページのブログ3をご覧いただけたらと思います。なお上社と同様な折れ線グラフは右のようになります。

下社と異なり、上社では見立てた御用材に薙鎌(なぎがま)を打ち付けます。これも新聞記事でご確認ください。

 

6.新型コロナウイルスの感染と御柱祭
新型コロナウイルス感染に関し、デルタ株の感染拡大が大きく報じられております。長野県の感染者数も、このブログを書いている時点で急増しております。人流を制限する、人と人との接触を極力減らすという制約の中、どのようにしたら御柱祭を実施することができるのか、諏訪大社も大総代(おおそうだい)も頭を悩ませております。もはや、諏訪の氏子だけで解決できる問題ではなくなってしまいました。

日本全体で感染が収まらない限り、「日常風景の御柱祭」は実現しません。本番まで、残された時間がわずかとなって来ました。「ワクチン接種が決定的な対策となるので、御柱御用材伐採を何とか乗り切れば、光明が見えて来る。」と希望的に私は観測しておりました。これが誤った考え方であったことは、第5次感染拡大の事実が物語っております。

敵(新型コロナウイルス)はデルタ株という新たなカードを切って来ました。私たちはどのように御柱祭に向かって行ったら良いのでしょう?

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