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ブログ5 建御名方命と諏訪大社上社

1.おことわり
諏訪の御柱は、「日本三大奇祭」と呼ばれることがあります。しかし諏訪の氏子にとっての御柱は、諏訪大社の最大の「神事」であります。神事故に、人の都合で勝手に変えることができません。雪が降ろうと、雨が降ろうと、天候は理由にはなりません。必ず行う神事です。

太平洋戦争(第2次世界大戦)も人間の都合です。召集令状で若者たちが戦地に送り出されましたが、戦時中は残った者たちで「神事」を執り行ったと聞いております。我々はその子孫であり、筆者もその一人であります。

そうは申しても、新型コロナウィルスは怪物でした。今年令和2年に予定されていた諏訪大社下社の本見立てが中止となりました。昨年の仮見立てで決めた樅ノ木が、令和4年で使われることに決まったのです。興味のある方は、ブログ3をご覧ください。

さて本ブログは、史実に基づいたものではなく、筆者が見聞きしたことから勝手に推測した内容を含んでおります。書いてある一部は「眉唾物(まゆつばもの)」であると了解いただき、「そんな考え方もあるのか?」と思って、お付き合いください。

なお本ブログでは、諏訪大社「上社」を扱っています。タイトルをわざわざ諏訪大社上社としましたし、より詳細は第5項に記述しておきました。

また引用の文章は青字で示しておきました。


2.犀川(さいがわ)と古代湖

諏訪大社は建御名方命(タテミナカタノミコト)を祀っています。『古事記』の国譲りの章に登場する神様で、大国主命(オオクニヌシノミコト)の次男であります。国譲りに反対の立場の神様でありましたが、自分の意見が通らず、故郷を後にすることになりました。

出雲を出発した建御名方命は日本海側沿いを旅して糸魚川に出たであろうと想像します。縄文の時代より、出雲-能登-糸魚川は翡翠(縄文時代の装飾品)で結ばれていたと考えるからです。これに対し、当地諏訪は黒曜石の産地です。縄文時代の武器であった矢じりの原料になります。いずれも、縄文人が関心を持っていた”石”です。
現在は新潟県でありますが、糸魚川から姫川沿いに山の合間を登って来ると、やがて右手に北アルプスが見えて来ます。長野県ではこの街道を「塩の道」と呼んでおり、昔は日本海産の塩が馬の背に乗せられて内陸に運ばれて来たことでしょう。日本海から南に向かう「塩の道」の最終地点が、松本市の南にあります塩尻(しお「じり」)市であると、地名から推測されます。
さて現在の大町市を越えると、安曇野に出ます。松本平と呼ばれることもありますが、当時は大きな湖があったと聞いております。そこには糸魚川-静岡構造線が走っており、諏訪湖と同様に地殻変動でできた湖があったかも知れません。あるいは日本列島がまだ大陸と繋がっていた頃に既に存在していたか、あるいは切り離された時に誕生した湖であったかも知れません。

現在の地図では犀川という川が、国道19号線と付かず離れず、並んで流れています。犀川は、佐久(軽井沢、上田)方面から
流れて来た千曲川と合流すると信濃川と名前を変え、新潟県を通って日本海に流れ出ます。千曲川の合流地点の近くに川中島(かわなかじま)古戦場があり、武田信玄と上杉謙信が繰り返し戦った場所として有名です。ところが地形図を見ると、何となく不自然さを感じてしまいます。諏訪湖の出口である天竜川に相当するのは、姫川がピッタリです。松本平を湖底としていたこの巨大湖の出口は、姫川と見るのが自然であると考えると、湖の横っ腹からどうして犀川が出て行くのでしょう。不自然さを感じます。

 

 

 

3.泉小太郎(いずみ こたろう)伝説
ここで信濃の民話を一つ紹介しましょう。松本地域に残っている『泉小太郎』という民話です。長野県のホームページに掲載されている文章を引用しますが、子供向けに書かれたものであるので、一部を漢字に変えておきます。


むかしむかし、松本、安曇(あずみ)の平は山々の沢から落ちる水をたたえた湖でした。そして、ここに犀龍(さいりゅう)という者が住んでいました。また、ここから東の高梨(今の須坂市高梨あたり)というところの池には、白竜王という者が住んでおり、やがて鉢伏山(はちぶせやま)というところで、二人の間に男の子が生まれました。
日光泉小太郎と名づけられた男の子は、放光寺山(今の松本市城山)あたりで立派に成長しました。泉小太郎が大きくなるにつれて、母の犀龍は自分の姿を恥ずかしく思い、湖の底に隠れてしまいました。
小太郎は、恋しい母の行方をたずね回り、熊倉下田の奥の尾入沢(今の松本市島内平瀬と田沢の境の辺り)で、やっと巡り合うことができたのです。母の犀龍は、小太郎に静かに語って聞かせました。「私は、本当は諏訪大明神の化身なんですよ。氏子(うじこ)を栄えさせようと姿を変えているのです。おまえは、この湖を突き破って水を落とし、人の住める平地を造るのです。さあ、私の背中に乗りなさい」
言われて小太郎は、母犀龍の背中に乗りました。この地は今も犀乗沢(さいのりざわ)と呼ばれています。二人は、山清路(今の東筑摩郡生坂村山清路)の巨岩を突き破り、更に下流の水内の橋の下(今の上水内郡信州新町久米路橋あたり)の岩山を突き破り、千曲川の川筋から越後(新潟県)の海まで乗りこんで行きました。
こうして、安曇平の広大な土地ができたのです。そして、小太郎と母犀龍が通った犀乗沢から千曲川と落ち合うところまでを、犀川と呼ぶようになりました。その後、小太郎は有明の里(今の北安曇郡池田町十日市場)で暮らし、子孫は大いに栄えたといいます。


この伝説を読みますと、昔、テレビ放映された番組のオープニングに映し出された映像を連想してしまいます。

ところで私の興味があったのは現在の明科(あかしな)辺りです。第2項の地図に赤丸を入れましたが、犀川の上流です。民話に出て来る山静路は犀川の中流であり、明科付近にもし巨岩があり、それを突き破ったならば簡単明瞭な物語であったでありましょうに。

この辺のことについては、第7項でもう一度取り上げます。

ところで、この民話に登場する犀龍とはいったい何者でしょう?この民話の説明にあるような諏訪大明神(現在の諏訪大社)の化身というのは、建御名方命のことでしょうか?そうであるならば旅の途中で、古代巨大湖から水を落とすために大土木工事を指揮していたのでしょう。

 

4.建御名方命と諏訪大社御柱祭
さて大国主命(オオクニヌシノミコト)の次男である建御名方命は、長野県では松本平(安曇野)の干拓という大事業をして、伝説のヒーローとなったのだと思います。その後、佐久平(上田方面、または小県)に出、八ヶ岳を越えて諏訪大社上社(当時は諏訪大明神)に入ったのではなかろうかと筆者は想像しています。泉小太郎伝説は、長野県の複数の場所に存在しているようです。つまり、建御名方命が通った道筋の各地区に「泉小太郎」伝説が残ったのだと推測できます。
『諏訪大社』(信濃毎日新聞社)という書籍の上社本宮(かみしゃ ほんみや)の項に、次のような記述があります。
<上社本宮の>祭神は大国主命の第2子建御名方命である。また建御名方(富)命とも書き、タケミナカタ(トミ)ノミコトという。
古事記に出雲の国ゆずりということがみえている。建御名方命は経津主命(フツヌシノミコト)・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)に追われて科野国(信濃国)洲羽海(諏訪湖)のほとりまで来て、もうどこにも行かないと約束してここに鎮座されたというのである。これは出雲の勢力が大和の勢力に吸収された経緯を語っているのだろう。そして出雲の文化をもって東北に開拓を進めた一団の氏族があり、日本海から姫川筋をのぼり、大町・長野・小県と水系をたどって進み、大門峠を越えて諏訪に入って来たと考えられる。
この道筋には多くの諏訪神社がまつられているので、開拓の進んできた道筋かとも思える。

ここで言う「出雲の文化」とは弥生文化あるいは稲作文化のことであります。この文化は西日本から広がり、縄文勢力の強い関東甲信を飛ばし、東北地方を南下して来た可能性を示唆しています。最後まで縄文文化を守ろうとしたのが八ヶ岳を中心に広がっていた「中部高地」(長野県と山梨県をまたぐエリア)であり、いよいよ諏訪にも稲作文化が入って来たことを述べているとも考えられます。この辺のところは、第6項で改めて私見を述べさせていただきます。

いずれにしましても諏訪湖の南側にそびえる守屋山(もりやさん)を信仰し、そのふもとに諏訪大社上社を建てた諏訪の縄文人と、建御名方命は融合し、諏訪大明神と一体化しました。


ここで三内丸山遺跡のホームページにある写真を紹介します。筆者はこの写真を見ると、『古事記』で大国主命が国譲りと引き換えに要求した「出雲大社の大神殿」と「諏訪大社の御柱祭」の2つを連想してしまいます。3つの事例は、次のような点で共通します。
1) 3つとも掘っ立て柱で、
2) 柱が土中の潜る深さは大よそ2メートルくらいで、
3) 見上げるような柱の高さ
これらの共通点から、縄文人の「木造建築技術」を感じます。当地で現在も残っている御柱という神事、「木を切り倒す、大きな柱を立てる」という技は、縄文文化の典型のような気がします。

こうして出雲の神様が諏訪の神様と一体となりました。そして御柱祭は、縄文文化を現代に蘇らす神事として代々引き継がれているように思います。

 

5.下社のこと
ブログ3で述べたように、諏訪大社の上社と下社では御柱祭の曳行ルートが全く異なります。また御柱を切り出す場所、即ち「山の神様」のおられる場所も異なります。御柱の御用材伐採地は、上社が御小屋山(おこややま)、下社が霧ヶ峰(きりがみね)です。
ところで下社は、秋宮と春宮という2社から構成されており、その名前から縄文というよりは「弥生」の文化の香りがします。これまで説明して来ました上社の縄文文化とは一線を画すように感じます。

よってこのブログで述べて来ました筆者の考察は、諏訪大社上社に限定で、下社は別の成り立ちとの立場でおります。

 

6.稲作の始まりと昆虫食
第4項では、出雲の文化とは弥生文化または稲作文化であると述べました。そもそも建御名方命とは、弥生文化の象徴あるいは稲作文化を持ち込んだ象徴であるという説もあるようです。

泉小太郎伝説から推測するに、当時の住民が松本平で湖底から現れた土地に喜んだというのであれば、この地域では既に稲作を始めていた可能性があったと解釈できます。縄文文化では、湖がなくなり魚が捕れなくなって喜ぶはずもなく、まして木も生えていない土地に感謝するとは思えないからです。なお松本平では、建御名方命の後に安曇(あずみ)族がやって来たと言われています。安曇野という地名は、この一族に由来しているという話も聞いております。

筆者は、建御名方命は諏訪に稲作を持ち込み、縄文人が稲作を始めたという立場を取ります。なぜならば諏訪という土地は、四方を山で囲まれ、すり鉢状をした地形の真ん中に諏訪湖があります。つまり耕地面積が非常に狭い地域です。稲作を大々的に行う土地がなく、また森の恵みや湖の恵みをそう簡単に手放したとは到底思えないからです。稲も森も湖も、食糧源としては同一の立場であり、稲作が断トツ有利だったとは考えられません。

ところで長野県は昆虫食の文化を持っています。伊那谷のザザムシなどが有名であります。諏訪で生まれ育った筆者は、まだ食したことがございません。しかし、蜂の子やイナゴは食べます。当地であれば、地域に特化したスーパーであれば今でも購入することができます。蜂の子を注文できる蕎麦屋さんもあります。このことを縄文文化の延長線上から見ると、稲作の導入に伴って昆虫食文化が始まったとも考えられると思います。森からの戴きもの、湖からの戴きもの、米に続き、昆虫という第4の食材源を手に入れたという解釈であります。

筆者の子どもの頃は、田んぼでイナゴを取っておりました。秋になりますと、どこの農家でも家族総出で稲刈りをします。稲刈りの済んだ後の田んぼで、大体が日の落ちる頃になりますが、子どもたちには親たちあるいは祖父母が予め用意しておいた布袋を渡されます。子どもたちはでイナゴを取りながら、親たちが稲刈りの後片付けをする時間を待ちます。

取ったイナゴはどんどんと布袋の中に突っ込んで行きます。布袋の中でイナゴたちが飛び跳ねているのが、布袋を見ているだけでも、もちろん触っても分かります。家に戻りますと、イナゴたちは布袋の上から熱湯を浴びせられて、つくだ煮の食材となります。虫を食べていた縄文人が稲作によりイナゴという新たな食材を得たのか、あるいはイナゴを手始めに昆虫食を始めたのか、その辺のところは筆者には分かりません。

もう1つの昆虫食の蜂の子ですが、地蜂の幼虫と成虫を食べます。稲作とは直接には関係ありませんが、田んぼの土手の草刈りをしている最中に見つけることもあったかと思います。伊那谷や諏訪地域で行われております蜂の巣探しの様子をご覧になった方もいらっしゃるかも知れません。ここでは八ヶ岳の麓での田舎暮らしの様子を紹介していらっしゃる太田清人さんのサイトをご案内します。諏訪方面への移住を考えていらっしゃる方は、住まいに関するご相談も受け付けていらっしゃいますので、参考にアクセスしてみてください。

 

7.再び、古代の巨大湖のこと
まず古代巨大湖のあった松本平と、千曲川と合流して信濃川という名で流れる善光寺平の標高差を調べてみようと思いました。単純な比較として、松本市(犀川の起点付近)と長野市(千曲川との合流点付近)の、それぞれの市役所の標高を調べてみました。


犀川の標高差は大雑把に約230メートルと読みました。


次にGoogleマップで、次のような情報を得ることができました。
① 山清路の東南東の方角に「諏訪神社」が今もある。
② 山清路の標高は約500mである。

諏訪神社の存在から、やはり建御名方命の土木工事は、明科ではなく、山清路であると考えた方が自然と言わざるを得ません。

次に地形図の標高から古代湖を推定することを試みました。JR篠ノ井線の明科駅の標高は526m(Google検索)です。山清路はGoogleマップの等高線より、標高500m付近にあります。両者の標高差は20~30mです。仮に山清路で犀川がボトルネックとなっていたと仮定し、数字の区切りのいいところで550mの高さを大雑把に地図上に描いてみました。その時に参考にしたのが、JR大糸線の駅の標高であります。
 

 

 

 


長野県内から諏訪にいらっしゃった観光客より聞いた話であり、直接に筆者が見たわけではございませんが、安曇野や長野市近辺には御柱というお祭りがまだ残っているそうです。これらのお祭りは諏訪の御柱祭と若干異なるとは想像しますが、泉小太郎伝説と同様、建御名方命がお歩きになった道中と重なっているように筆者には思えます。

 

 

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