コラム9 銅鐸と鉄鐸
0.はじめに
銅鐸は中学の社会科の教科書に登場する、金属製品の典型的な1つであると思います。材質は青銅で、銅と錫の合金です。歴史上、後に登場する鉄鋼に駆逐されて行くというイメージがあります。どちらかと言うと、銅像のような美術工芸品に使われる金属というようなに筆者は感じておりました。
本コラムでは、金属材料の青銅を取り上げます。しかしながら銅鐸という形になっているものを通して、この金属を眺めてみたいと考えております。例によりまして、引用した部分は青字で示してあります。どうぞ最後までお付き合いください。
1.鐘の音
2021年2月10日、ニュースを見ていると急に心を打たれる鐘の音が聞こえて来ました。
2001年2月10日、ハワイ・オアフ島沖で宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がアメリカの原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突されて沈没し、生徒や教員、乗組員の合わせて9人が犠牲となりました。
事故から20年となる10日朝、水産高校で追悼の式典が行われ、遺族や生徒らおよそ260人が参列しました。
式では、事故が起きた午前8時43分にえひめ丸から引き揚げられた鐘を9回鳴らして9人の犠牲者を悼み、1分間の黙とうをささげました。
全国放送のニュースの中で流れたものですが、何と心に染み入る鐘の音だろうと思いました。上の文章は、NHKニュースからの引用です。
鐘の音は、古代人の心をも掴むのではないでしょうか?銅鐸の鐘の音です。
ところで銅鐸は発掘されているものの、その音を再現しようと考える人はそうたくさんはいないだろうと予想します。偶然なのか、筆者は昨年5月、地元のNHK局が制作した番組で、そのような人がいることを知りました。番組名は『知るしん』と言います。「信州を知る」テレビ番組であります。Webで調べてみましたが、番組そのものを見ることは叶いません。過去に放送した番組名ならば確認ができますので、長野県に興味のある方は、ここをクリックしてください。
このサイトによりますと、この番組紹介は、次のような説明となっております。
弥生時代を象徴する青銅器「銅鐸」。何を目的に作られ、どう使われていたのか未だ明らかになっていない。そうしたなか、材質から形まで完璧に再現することでその答えに迫ろうというプロジェクトが進められてきた。そして今月、現代技術や知見を総動員した銅鐸が、ついに公開。いったいどんな輝きを放つのか、そしてどんな音を響かせるのか?1年に及ぶ密着取材から、古代史に残された大きな謎に迫るミステリー!
この放送は、先ず銅鐸を復元するところから始まりました。砕けた状態で発掘された銅鐸を貼り合わせて復元するのではなく、発掘された銅鐸を図面化し、現代の匠が作るというプロジェクトです。
モデルとなった銅鐸は、長野県中野市にあります柳沢遺跡で出土した弥生時代のものです。プロジェクトリーダーは富山県高岡市美術館の村上隆(りゅう)館長です。そして高岡銅器という会社が、出土した銅鐸を3次元測定して図面起こしし、鋳型を作って青銅の鋳物(=銅鐸)を作ったのです。外形だけでなく、厚みや材質も忠実に再現しようとしました。現在の匠をもってしても、その形状と薄さから、技術的に容易な鋳造ではなかったことが番組で紹介されました。どのような人が、どこの銅と錫を使い、このような鋳物を作ることができたのでしょうか?古代人の鋳造技術の高さに驚かされます。
現代の匠で復元された銅鐸を、続編の放送では鳴らして音を聞くまでが紹介されました。人の手で銅鐸をならしたのでは、鐘の叩き方に差が出てしまって音色の比較ができません。だから村上館長は、まず鐘を叩く装置を作ってくれる会社探しから始めたのでした。
ところで復元された銅鐸の大きさは2種類です。
復元した銅鐸の大きさ | 大 | 小 |
高さ | 220 | 195 |
幅 | 140 | 125 |
また青銅も錫の含有量で2種類を試しています。錫の量によって色味が異なり、多い方が金色に近く仕上がったとのことです。
番組の終わりの方で村上館長は、「古代の人が聞いたであろう音色を聞くことができ、感慨深い」と話していました。
日本人の考え方(あるいは発想)のルーツは古事記の中に描かれていると想像します。どのようなものにも神が宿っていると古代人は考えていたと思います。その神様が銅鐸の響きで集まって来て、人間が日々の生活の中で背負ってしまった穢れ(けがれ)を除き、その集落に幸福をもたらすと考えていたと筆者は勝手に想像しています。銅鐸を所有できるのは、巫女のような方の存在であったのでしょうか?神様の使いのようなお方だと推測します。
2.再び銅のこと
コラム7『奈良の大仏と銅』で、日本の銅の生産を取り上げました。奈良の大仏を建立するため、わざわざ銅が山口県から運ばれて来たことを知りました。またその建立の目的の1つに「疫病退散」があり、新型コロナウイルスの脅威にさらされている現代の私たちが置かれている状況と酷似しているようにも思いました。
さて世界に目を向けてみますとエジプトのピラミッドの建造で、石を切り出すために銅が使われたとのことでし た。NHKの『完全解剖!大ピラミッド七つの謎』という番組から得た情報は、次の通りであります。
- 最大のピラミッドでありますクフ王のそれは、230万個もの巨大石を積み上げています。
- 巨石の平均重量は5トン、最大のものは60トンもあります。
- 当時の最強の金属は銅で、これらの石を切り出すのに使われておりました。銅の採掘はシナイ半島で、ワディ・エル=ジャラフ遺跡が紹介されました。
- 銅の精錬の再現実験が組まれましたが、燃料にロバの糞を使っておりました。当時の最強の金属と言っても、銅製のノミは磨耗しやすいものです。ピラミッド建造には大量の銅を精錬する必要があり、ロバの糞だけで必要な熱量を得られたとは、私には思えません。
- また当時使われていた砥石が発掘されたのを知り、金属を研ぐという技術が現代まで連綿と続いていることが確認できました。
クフ王のピラミッド建設が紀元前2500年頃と言われておりますので、銅の精錬技術はこの時期あるいはそれよりも前に形になっていたということになります。
3.錫のこと
このコラムでもまた、TrekGEOのサイトにお世話になります。トップページより、「鉱物」→「鉱物から精製しよう」と進みますと周期律表が現れます。元素名Snをクリックしてください。下の画像のような、錫の精製(製錬)方法が紹介されております。
錫石を木と共に焼くことで金属を取り出せるようです。電気回路の接続に使われていた半田(錫と鉛の合金)を思い出せば、納得できるような気がします。そんなに高温でなくとも熔けそうな雰囲気がします。
さて古代人は、銅鐸に使う青銅をどのようにして手に入れていたのでありましょう。まず、伸銅品のJIS規格に当たってみましょう。アルファベットのCと4桁の数字で表します。
4桁の数字 | 伸銅品の種類 | 具体例 |
C1000番台 | 純銅もしくは銅を多く含む合金類 | ベリリウム銅、チタン銅 |
C2000番台 | 銅と亜鉛の合金(Cu-Zn系) | 黄銅、丹銅 |
C3000番台 | Pbを添加した合金 | 快削黄銅 |
C4000番台 | Cu-Zn系に錫Snを添加した合金 | ネーバル黄銅 |
C5000番台 | りん青銅(Cu-Sn-P合金) | |
C6000番台 | アルミニウム青銅 | |
C7000番台 | Cu-Ni合金 | 洋白、白銅 |
伸銅品には青銅の規格はないようです。
銅と錫を別々に精錬し、古代人が適当な割合で混ぜ合わせて合金にしていたなんて考えられません。
よく調べますと、別のJIS規格に鋳物がありました。CACというアルファベットから始まる銅鋳物です。銅の鋳物も、伸銅品と同じように純銅、黄銅、青銅、アルミニウム青銅などの系統があります。伸銅品と共通している物性もありますが、鋳物(または地金)それぞれがかなり特化した性質を持つため、用途に応じて使い分けられているとのことです。
3桁の数字 | 伸銅品の種類 |
CAC100番台 | 純銅系 |
CAC200番台 | 黄銅系(Cu-Zn系) |
CAC300番台 | 高力黄銅系 |
CAC400番台 | 青銅鋳物系 |
CAC500番台 | りん青銅系 |
CAC600番台 | 鉛青銅系 |
CAC700番台 | アルミニウム青銅系 |
CAC800番台 | シルジン青銅系 |
CAC900番台 | ビスマス青銅系、ビスマスセレン青銅系 |
銅鐸の材料、青銅はCAC400番台ということになりそうです。
4.柳沢遺跡のこと
第1項の柳沢遺跡について、もう少し詳しく見てみましょう。地図で調べますと、柳沢遺跡は長野市よりさらに北にあります。上田・佐久方面を流れて来た千曲川と、松本方面を源とする犀川とが長野市で合流し、信濃川となります。信濃川はさらに北上し、中野市や飯山市を通って新潟県に向かいます。信濃川は中野市の北で、両側から山がせり出して来るような地形の場所を通過しますが、この近くに柳沢遺跡があります。
なお長野県埋蔵文化センターのホームページ(トップページより、「調査情報」→「報告書刊行」→「柳沢遺跡」と辿ってください)によりますと、人が暮らした時代は縄文、弥生、平安、中世、近世となっています。縄文時代から近世に至るまで、長期に亘って人々が暮らしていたようであります。
上の地図をご覧いただきますと、柳沢遺跡から少し西に、ナウマンゾウの化石発掘で有名な野尻湖(信濃町)があります。柳沢遺跡の縄文人も、野尻湖にナウマンゾウを狩りに行ったのでしょうか?
5.銅鐸のこと
上の第4項、長野県埋蔵文化センターの報告書によりますと、柳沢遺跡では青銅器が埋納されていたそうです。筆者は「埋納」という言葉から、荒神谷(こうじんだに)・加茂岩倉遺跡を連想しました。
荒神谷遺跡は島根県出雲市にあります。『歴史を塗り替えた日本列島発掘史』(大塚初重著、中経出版)によりますと、1984年(昭和59年)に358本の銅剣を発掘しています。その様式は、弥生時代中期後半から後期前半に属します。更に翌年の1985年に銅矛16個と銅鐸6個が発見されました。
上の画像は、例えば一般社団法人出雲観光協会のホームページで見ることができます。説明文も豊富です。興味のある方は、是非アクセスしてみてください。トップページより、「おすすめスポット」→「荒神谷遺跡」と進んでください。所在地は出雲市斐川町です。町の名前から今度は、鉄づくりの「たたら」を連想させます。当社ホームページのコラム4『日本の鉄づくり -たたら製法-』をご覧ください。
1996年(平成8年)には、荒神谷遺跡の南東約3.5キロにあります雲南市の加茂岩倉遺跡より銅鐸39個が埋納されているのが見つかりました。このことは雲南市のホームページ(トップページより、「観光・文化」→「観光」→「遺跡・資料館」→「加茂岩倉遺跡」と進んでください)に詳しく書かれております。
『歴史を塗り替えた日本列島発掘史』著者の大塚氏は、荒神谷・加茂岩倉遺跡の青銅器の章を次のような言葉で結んでおります。
両遺跡の青銅器は、神話の国、神々の集う国といわれてきた出雲社会が、紀元前2世紀から1世紀ごろには列島内で重要な政治的・経済的に拠点を形成していたことを物語っていると思うのである。
6.諏訪のこと
出雲が出て来ましたら、筆者はどうしても次は諏訪となります。調べたところ、諏訪、あるいは長野県は銅鐸ではなく鉄鐸の方が知られているようであります。『人と鉄』(北野進編、信濃毎日新聞社刊)に次のような記述が載っておりました。
(諏訪大社上社の鉄鐸は)宝鈴(ほうれい)と呼ばれており、鉄鐸が6個で1組、合計3組ある。上社の最も重要な宝物とされ、現在の神事には使われておらず、宝物館に納められている。 (中略) 鉄鐸の音は、誓約の場に神を降ろすために使われている。
このような重要な神器も、室町時代から戦国時代には、外部に貸し出されるようになり、土地争いの解決や戦争の和平など、誓約の場で鉄鐸は鳴らされる。特に、争いを続けていた甲斐の戦国大名武田信虎と諏訪頼満が、天文4年(1535)に和を結ぶ際に、諏訪上社の宝鈴(鉄鐸)が境川まで運ばれ、誓いの証として鉄鐸が鳴らされたのは有名である。
同書によれば、鉄鐸の使われていた時代と地域を次のように推定しています。
古墳時代には、ほぼ全国的に鉄鐸を用いた祭祀が薄く広く全国的に行われていたことを示している。ところが、平安時代、それも10世紀以降の鉄鐸の発見は、栃木県の日光男体山をのぞくと、現在のところ信濃に集中している。10世紀以降は、中央で忘れ去られた鉄鐸を用いた祭祀が、逆に信濃では広がり根づいたと考えられる。
さて諏訪で銅鐸と言いましたら、この人でしょう。
銅鐸とは何か?銅鐸は鳴らすのか?見るのか?なぜ埋められ消滅したか?諏訪大社の神宝「鉄鐸」とは?このような謎を追い求めた人が地元におりました。藤森栄一です。
筆者の学生時代に、国語の教科書に藤森栄一の書いた文章が載っていたことがあり、『かもしかみち』を図書館から借りて読んだ記憶があります。
また当社のホームページのブログを書くことがきっかけとなり、筆者は故郷のことを調べるようになりました。藤森栄一に最も影響を与えた人物の一人が、諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)の三澤勝衛先生であることを知りました。そして三澤勝衛に影響を与えた人物の一人が、福島県出身の渡辺敏であります。渡辺敏あるいは三澤勝衛の活躍された時代が、長野県の教育(当時は信濃教育と呼ばれていたと思われます)の全盛期の頃であったようです。
7.銅と文化
銅鐸の文化は、輸入品の銅鐸が古代日本人の儀式の中に入りこんで来、だんだんと青銅の原料(鉱石)を海外から調達して自分たちの手で精練して銅鐸を鋳造するようになったと筆者は理解するようになりました。銅鐸は日本で独自の発達をして、「音を愛でる金属」から「目で眺める鋳物」に変化して大型化して行くようであります。
銅鐸のデザイン(大きさ、紋様)や鋳造技術(型の製造、青銅の溶解、湯の入れ方、その他)に日本人の独自性が発揮されるようになったのが弥生時代です。やがて古墳時代に入ると銅鐸は地中に埋められ、忘れられて行ったということでしょうか?
【付録のお話】
当社は2020年より Coolmould というヨーロッパ・ブランドのベリリウム銅の取り扱いを始めました。ここにも筆者は、文化の香りを感じることができるような気がしています。
ヨーロッパで森と言えば、ドイツや北欧を連想します。木材を燃料とした金属精錬業が栄え、その地域で独自に発達した金属のブランド材があっても全く不思議ではないと思います。
日本刀の材料となる「たたら」の鉄も、日本ブランドの1つです。ブランド材が今後も生き残ることを、切に希望しております。