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コラム7 奈良の大仏と銅

0.はじめに
株式会社シュタールのコラムにようこそアクセスしてくださいました。当社で取り扱っている非鉄金属の中から、コラム3では最も需要の多いアルミニウムを取り上げさせていただきました。今回はコラム7として、銅を取り上げることとします。

なお本コラムを書くに当たり、次の2つの資料を多くの場面で参照し、引用していますことをお知らせします。
①講談社ブルーバックス『古代日本の超技術』(改訂新版、志村史夫著) → 以下『古代日本』と略します。
②Webサイト 「TrekGEO(自然を歩こう)」 → 以下、TrekGEOと記述します。

また引用の文章は青字にしておきました。

 

1.アルミニウムの精錬方法
コラム3でアルミニウムについて記述しましたら読者より、「アルミニウムの精錬になぜたくさんの電気が必要なのかが分からない。」という質問が寄せられました。当時、引用しようとしていたサイトにリンクを張る許可が得られず、この問題を置き去りにしておりました。
今回、TrekGEOのサイトを使いながら紹介させていただきます。ボーキサイトという鉱物からアルミニウムを取り出す精錬方法ですが、大雑把に示すと次の2ステップとから成ります。

【ステップ1】 ボーキサイトAl2O3・H2OよりアルミナAl2O3を得ます。
工業的製法ではまずボーキサイトを水酸化ナトリウム溶液に溶かす。
Al2O3+2NaOH+3H2O → 2Na[Al(OH)4]
この溶液を濾過して、ボーキサイト中の不純物を除去する。濾液を大量の水で薄めて白色沈殿物を得る。
[Al(OH)4]- ⇆ Al(OH)3↓+ OH-
沈殿物Al(OH)3を強熱し、純度の高いアルミナを得る。
2Al(OH)3 → Al2O3+3H2O

【ステップ2】アルミナを融解した氷晶石に溶かし、溶解塩電解して純粋なアルミニウムを得ます。
アルミナの融点は約2,000℃と高温であるが、氷晶石を用いることにより1,000℃近くで溶かすことができる。この液体
状態の中で電気分解する。ただしアルミニウムを得るためには氷晶石とアルミナを1,000℃付近に保つ必要があり、この
ために多量の電力が必要になる。

 

2.銅と、日本の明治時代・江戸時代
さて本題の銅ですが、この金属名を聞きますと筆者はまず足尾銅山鉱毒事件を連想してしまいます。Eco検定の公式テキスト(東京商工会議所編著)の2章、2-1「公害問題はこうして始まった」に登場します。引用しますと次の通りです。
日本の公害問題は、明治時代に栃木県渡良瀬川流域で発生した足尾銅山鉱毒事件が原点といわれています。
1890年ごろから、渡良瀬川上流の鉱山で生じる鉱滓(銅を精製するさいに出るカス)が洪水で渡良瀬川にたびたび流出して流域の土壌を汚染し、農作物に大きな被害を及ぼしました。結局、住民は移住することを余儀なくされ、汚染地域は遊水池とする措置がとられました。
この公式テキストには、「足尾銅山」が脚注として載っています。
1610年に発見されて以来、江戸時代から1973年までの400年近く続いた歴史ある銅山。
足尾で採掘された銅は、古くは東照宮や江戸城などの建造のさいに使われ、オランダや中国などへも輸出された。
戦国時代、戦(いくさ)の費用を捻出するために戦国大名は鉱山開発に熱心だったと読んだことがあります。天下統一後もその流れは続き、豊臣秀吉や徳川家康によって鉱業が振興されました。江戸時代に開発された銅山として、次のような鉱山が挙げられます。

鉱山名 場所 紹介 出所
足尾 栃木県日光市 江戸幕府直営の銅山として管理された後、古川市兵衛により近代化される。最盛期には40,000人を雇用。開発された鉱脈鉱床15,000本、河鹿鉱床100個。坑道総延長は約1,200km。 TrekGEO
尾去沢 秋田県鹿角市 1596年(慶長元年): 金鉱床を発見。
1663年(寛文4年): 銅鉱床を発見。
1940年代には、国内屈指の銅鉱山。最盛期には4,500人を雇用。主力は金、銀、銅。
TrekGEO
阿仁 秋田県北秋田市 1309年に金山として開発されたと言われており、その後、銀、銅を産出するようになりました。1716年(享保元年)には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられ、阿仁鉱山の名は全国的にもよく知られるようになりました。 阿仁異人館・伝承館
別子 愛媛県新居浜市 1690年(元禄3年)に発見され、翌1691年に開坑しました。以来、1973年(昭和48年)に閉山するまで、江戸・明治・大正・昭和の4時代283年にわたり、銅を産出し続けました。
海抜約1,200mの地点から採掘が開始され、最終的には海抜マイナス約1,000mまで、営々と掘り続けられました。
住友グループ広報委員会 >別子銅山記念館

『銅製錬技術の系統化調査』(独立行政法人 国立科学博物館)によれば、銅の生産量は1697年(元禄10年)頃にピークに達し、年間6,000tという世界一の産銅国となったとのことです。

 

3.奈良の大仏に使われた銅の原産地は山口県
時代を更に遡り、奈良時代まで行ってみましょう。東大寺にある奈良の大仏(盧舎那仏)は、『古代日本』によれば次のようにして作ったようです。
鋳込みは、大仏の下部から上部まで8段階に分けて行われた。1段ごとに、周囲に内径50センチ、高さ1.5~2メートル程度の炉を数十基配置して熔銅を流し込み、土で埋めて上部へ順に鋳継いでいったとされている。
その後、戦乱、焼き討ちなどによる破損のため、奈良の大仏は鎌倉時代と江戸時代に大幅に修復された。現在、創建当初の姿が遺るのは腰から下の部分のみと言う。
再び『古代日本』からの引用である。
幾度かの修理・改鋳の際に使用された材料はそのたびごとに異なり、当然ながら、仏体の化学的成分は部分によって違っている(一般的にいえば、時代が下がるにつれて銅の純度が下がり、錫(スズ)の含有量が増えてくる)。創建時の仏体から採取した3試料の成分分析による平均値は、銅93.2、錫1.9、砒素3.0、銀0.2%などとなっており、1988年に発掘された熔銅塊の分析結果とほぼ一致する。
ここに登場する1988年の「発掘」ですが、『古代日本』には次のような説明があります。
奈良県立橿原考古学研究所が、1988年1月から東大寺大仏殿回廊西側の発掘調査を行い、大仏が奈良時代に鋳造された際の熔銅塊や多量の銅滓、木炭、鋳造工程を示す木簡200点などを発掘したのである。発掘された木簡のうち、解読できたのは約100点で、銅の重量や銅を熔かした竈(炉)の番号、鋳造に従事した工人の名前、人数などが記されている。
いよいよ銅の精錬場所の特定に迫ります。少し長くなりますが、『古代日本』より引用します。
奈良時代には、少なくとも、武蔵、山背、因幡、備中、備後、周防、長門、豊前の銅山が知られ、それらの国から朝廷へ銅が献じられている。各銅山の銅の成分は、それぞれ微妙に異なる。奈良の大仏創建時に使われた銅が長登産の銅であると断定された“決め手”は、熔銅塊中に含まれていた3.2%という異常に高い砒素の濃度であった。
長登の銅鉱石の特徴は、砒素が通常の銅鉱石の100倍近くも含まれていることである。さらに石灰分も多い。このような鉱山は、岩石が化学変化した交代鉱床が走る一帯に多く、その付近には石灰岩地帯が拡がる。当時の銅産地の中で、この条件に合うのは長門と武蔵(秩父)の2箇所である。大仏創建時に使われた銅がそのうちの長門(長登)のものであると断定したのは、鉛同位体分析による年代測定結果であった。
なお長登(ながのぼり)は「奈良のぼり」がなまってできた地名という言い伝えもあるそうです。

 

4.奈良の大仏が建立されるまでの年譜
『古代日本』の記載を参考に、奈良の大仏が建立されるまでの年代を一覧表にしてみましたので、ご覧ください。

文武2年3月 698年 因幡国(鳥取県)銅鉱を献ず。
〃 9月 698年 周防(山口県)からも銅鉱が献じられる。
天宝元年 701年 「大宝律令」が公布され、わが国初の鉱業法規が施行。
慶雲5年 708年 武蔵国(埼玉県)秩父で自然銅が産出、慶雲から和同に改元。当時の銅の産地は山背(京都府)、備中(岡山県)、備後(広島県)、長門(山口県)、豊前(福岡県)などの国々が挙げられる。
天平6年 734年 大地震が2度、畿内と七道諸国を襲う。
天平7年~9年 735~737年 天然痘が蔓延。
天平13年 741年 全国に国分寺を建てる詔が発せられる。
天平15年 743年 大仏建立の詔が発せられる。
天平17年 745年 平城京の山金里(現・東大寺)で大仏建立の工事開始。
天平勝宝4年 752年 大仏開眼供養会が、完成半ばの大仏殿の前で盛大に行われた。開眼師は、はるばるインドから招待された菩提僊那僧正。

学校で習うこの頃の年代とすると、大化の改新645年、平城京遷都710年辺りが思い浮かびます。大仏建立の大工事が始まったのが、大化の改新からちょうど100年後ということになります。
2020年、現代日本では新型コロナウィルス COVID-19 が猛威を振るっております。ウィルスに対してある程度の知見のある現代人であっても、恐怖を感じてしまいます。ましてや奈良時代、天然痘が流行していた時期の庶民の生活はどんなであったでしょうか?「三密を避ける」などという合言葉もなかったでしょうし、テレビ、ましてインターネットもない時代です。どのように情報や指示を伝達していたのか、その苦労がうかがわれます。現代で言えば安倍首相、当時の聖武天皇が取れた政策は何であっただろうかと思い悩んでしまいます。
なおWHO が天然痘の世界根絶宣言を行ったのは、1980年5月のことであります。
また近年発生の東日本大震災や台風の豪雨災害を併せて考えますと、「奈良時代のこの当時」と「私たちが生きている現代」とを重ね合わせることができるようにも思えます。
当時、皆で力を合わせて苦難を乗り越えるというような日本人のDNAが発揮されたのでありましょうか?また行基というような人物を、生み出したのでありましょうか?大仏建立に力を合わせた当時の人たちの気持ちが、新型コロナの時代に生きてみて、一層よくわかるようになった気がします。

 

5.奈良の大仏に長登の銅鉱石が使われた理由
さて長登の銅が奈良の大仏建立に採用された理由ですが、『古代日本』を元に次のようにまとめることができます。
(1) 大仏の鋳造に使われた銅のグレード
奈良の大仏に使用された銅は、青銅(銅と錫の合金、銅像に多く使われている、錫の含有率の最大は35%)というよりも純銅に近い成分でした。第3項で述べたように、銅の濃度が90%以上、錫の含有量はたったの2%以下でありました。
(2) 融点
銅の融点は1083℃です。錫の融点が232℃ですから、錫の含有率が高ければ高いほど融点は下がります。しかし奈良の大仏に使用された銅は、錫がほとんど含まれていませんでした。
当時の熱源として使えるものは木炭と木材であったでしょう。よって、できるだけ融点が低いことが大仏建立には望まれたところであります。ところが約5%の砒素を含む長登の銅は、1000℃前後で熔けます。これが長登の銅が使われた理由の1つであります。
(3) 粘性
長登の近くに、鍾乳洞で有名な秋吉台があります。長登の銅鉱は石灰岩台地にあり、石灰分も多く含みます。この石灰岩がフラックスの役割をし、熔銅の粘度を低くする効果がありました。
大仏の鋳造方法ですが、中子法で製作されました。外型と中型の間の隙間は約6cm、この中に熔かした“純銅”を流し込むのですから、サラサラの熔銅が望まれたのでありましょう。隙間が大きくなれば大仏に使用する銅の量が増えるし、隙間を小さくすると熔銅の廻らない巣(空間)が生まれてしまいます。

 

6.技術力に関する考察
(1)精錬方法
さて銅は、どのように精錬されるのでしょうか?
TrekGEOには、右図のように2種類の製法が紹介されています。

【方法1の検証】鉛を精錬し、その中に含まれる銅を分離抽出する方法
先に鉛を精錬する必要があるようです。その精錬方法も下図のように2通りが紹介されています。いずれも方鉛鉱を原料として使用します。

長登鉱山で方鉛鉱を産出するのか、鉱物を調べてみました。TrekGEOによりますと、長登鉱山は銅の他にコバルトが産出するようです。方鉛鉱は産出しないようでありますので、銅の精錬として方法1を抹消しました。【方法2の検証】黄銅鉱を加熱する方法
長登鉱山で黄銅鉱を算出するかどうか確認してみると、上の通り、ありました。奈良の大仏に使われた銅は方法2で精練されたと予想できます。

(2)加熱方法
銅の精錬で、方法2には1100℃というような温度が必要となります。砒素の力をもってしても、少なくとも1000℃まで加熱する技術がなければ、銅の精錬が成立しません。
ところで奈良時代には既に、日本独自の鉄鋼の精錬方法である「たたら製法」(当サイトではコラム4で取り上げております)が確立していたと思われます。TrekGEOで鉄鋼の精錬方法として2通りが紹介されています。方法1が木炭と砂鉄とで精練するたたら製法に相当します。方法2は現代の高炉を使った精錬方法となります。ふいごを使って空気を送る方式のたたら製法で1000℃以上の温度が得られているのであれば、銅の精錬にも応用できたであろうと推測します。
『古代』にこれら2通りの鉄鋼に関する精錬方法について、比較した表が載っていたので転載しておきます。炉内温度が1200~1300℃となっており、奈良時代であっても木材と木炭を使って銅の精錬に必要な温度を得られたことでしょう。

(3)技術者
奈良の大仏が建立された8世紀はどのような時代であったでしょうか?現代の日本では、人手不足解消として技能実習制度を取り入れています。外国人労働者は今も過去も大事であります。
奈良時代あるいはそれ以前から、朝鮮半島から技術者が渡来して来たのではないだろうか、と筆者は想像しています。Wikipediaで“百済”を検索してみましたら、次のような記述がありました。
中国で南北朝時代が終焉を迎え隋が成立すると、百済はいち早く関係を結んだが、ついで唐が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。
百済から倭国(日本)に逃れて来た者もいるだろうし、新羅からやって来た技術者もいたであろうと推測します。
早速、長登の位置を調べてみることにしました。銅鉱の跡を今でも見られるようですが、近くに建っている文化交流館を目印にしてみました。Mapionによると、長登銅山文化交流館(大仏ミュージアム)は海抜159mです。更に地理的に有利な事に、海岸からも近い所にあります。朝鮮半島から技術者が比較的容易にやって来られる地域であっただろうと推測できます。銅の精錬と共に、鋳型を作って鋳造するという技術を教えてもらった(あるいは日本人が渡来人と一緒になって開発した)に違いないと思っています。

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