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【コラム5】釜石鉱山と南部藩

2019年は、ラグビーワールドカップで日本中が盛り上がった年でありました。ある程度の年齢の方であれば、ラグビーと聞けば、新日鉄釜石というチーム名が頭に浮かぶでありましょう。

2011年の東日本大震災で釜石市が津波にのみ込まれたことをニュースで知ってはいましたが、なぜ製鉄所が岩手県釜石市にあるのだろうかとまでは、考えてみたことがありませでした。

農林水産省のホームページに、東日本大震災の被害状況が掲載されておりました。釜石市を襲った津波は4.1m以上とのことです。大船渡市は8.0m以上です。

ところが先日、NHKのブラタモリという番組で「三陸の鉄道」が取り上げられました。主なロケ地は大船渡市と釜石市でした。

大船渡市では太平洋セメント株式会社の大船渡工場が紹介されました。石灰岩が、採掘場から岩手開発鉄道でこの工場に運び込まれる様子がテレビに映し出されました。

釜石市は「日本で最初に製鉄所として成功した事例」として、番組では紹介が始まりました。

※ 以下、本コラムではWebからの引用は青字にしてあります。


「東北地方で鉄」と聞くと、南部鉄器を想起される方も多いのではないでしょうか。まず地理を調べてみました。Wikipediaによりますと、現在の釜石市は唐丹町を除き、盛岡藩であったとのことです。私の頭の中では、南部藩と盛岡藩とが混乱を始めました。再びWikipediaで、ここら辺りを紐解いてみました。
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。

このWebページでは、更に続けて盛岡藩の歴史の項目に次のように出ています。
甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。南部氏は、相馬氏、相良氏、宗氏、島津氏と並び、鎌倉時代以来、明治まで、700年近くにわたり同一の国・地域を治め続けた、世界でも稀有な領主である。
「盛岡藩」=「南部藩」で、当社の近く、山梨県ともつながりがあったことがわかりました。

次にWikipediaで、釜石鉱山の概要を調べてみました。
北上山地の沿岸部に位置しており、明治時代の開坑から現在まで150年余の歴史を持つ。主要の鉄以外に金・銀・銅・鉛・亜鉛なども産出した。この鉱山の存在によって、釜石市には現在でも日本製鉄釜石製鉄所などの企業が数多く立地する。1993年(平成5年)に大規模な鉄鉱石の採掘は終了した。

続けて、沿革より幾つかの年を抽出して表にしてみました。赤字は注目していただきたい項目です。

1727年 享保12年 江戸幕府付採薬使の阿部将翁が仙人峠で磁鉄鉱を発見したとされる。
1822年 文政5年 盛岡青物町の理兵衛に対し、藩より最初の試掘の許可が下りる。
1857年 安政4年 南部藩士大島高任が日本初の高炉を使った出銑に成功。
1874年 明治7年 政府が買い上げて官営鉱山とし、海外より機械を輸入して技師を迎えた。
1880年 明治13年 9月より官営製鉄所が操業を開始するも98日目で休止。同年日本で3番目の鉄が釜石に開通する。
1883年 明治16年 官営製鉄所の廃止が正式に決定。鉄屋田中長兵衛に払い下げを依頼。
1885年 明治18年 田中長兵衛とその番頭横山久太郎ら民間の手で製鉄への挑戦が始まる。
1886年 明治19年 10月16日、苦難の末49回目の挑戦にして成功に至る。
2007年 平成19年 11月30日、経済産業省より近代化産業遺産に認定される。

それでは南部鉄器に使われた鉄が、釜石鉱山由来のものであったのでしょうか?現在も南部鉄器を製造し、販売している企業群があることを知りました。『いわての文化情報大事典』というサイトに「南部鉄器」の項目で次のような記事が掲載されています。盛岡市と奥州市が紹介されています。
盛岡の南部鉄器は、江戸時代中期(約380年前)に南部藩主が京都から釜師や鋳物師を招き、茶の湯釜を造らせたのが始まりで、江戸時代に南部藩の保護を受けて、甲州(山梨県)からも鋳物師を招き、茶の湯釜、仏具、鉄瓶の産地となった。
一方、奥州の南部鉄器は、平安時代後期(約930年前)に藤原氏が京都や近江の国(滋賀県)から鋳物師を招き、仏具や鉄鍋釜を造らせたのが始まりで、江戸時代に伊達藩の保護を受けて、鉄鍋釜、仏具の生産が活気的に伸び、明治時代初期には東北一の産地となった。
昭和34年に盛岡と奥州の南部鉄器職人が友好的に交流し、両産地で造られた鉄器を「南部鉄器」ブランドとしてからは世界市場へ販路開拓し、需要拡大に成功し、現在では、岩手県の南部鉄器は「世界の有名ブランド品」として飛躍的に発展している。

釜石鉱山の歴史と南部鉄器の歴史を突き合わせますと、釜石鉱山の鉄と南部鉄器の原料とは別物と読めます。つまり、南部鉄器は砂鉄から「たたら製法」で作った銑鉄を原料に製造、発展して来たと考えられます。原料の砂鉄の主たる産地としては久慈が頭に浮かびます。同じく『いわての文化情報大事典』の「久慈砂鉄鍋」の項を見ますと、次のように紹介されています。
久慈地方は豊富な砂鉄の産地であり、この砂鉄を原料として古くから「たたら吹き」による精錬方法で鉄が作られ、関東、関西へも移出されていた。

日本の製鉄の歴史を眺めると、砂鉄を原料とした「たたら製法」の伝統が生き続けており、高炉を使った近代的な製鉄法は明治維新直前から始まったと考えて良さそうです。「たたら製法」につきましては、コラム4で取り上げましたので、そちらもご覧ください。1853年にペルーが浦賀に来航した時、日本では高炉を使った製鉄業がなかったということになりますので、さぞかし軍艦に驚いたことでありましょう。当社のような金属流通業者が仮に見たとしますと、「その軍艦に使った大量の鉄、どこで仕入れたのですか?」と思わず聞きたくなってしまうことでしょう。


 

さて大船渡市と釜石市の共通項は何でしょうか?その1つは「石灰岩」だと思います。

南半球にあった島が、赤道を通過するときにサンゴ礁を身に付け、それが日本列島(東北地方の太平洋側)にぶち当たって石灰岩を形成しました。これが原料となって大船渡市ではセメント業を興し、釜石市では鉄鋼業を興す要因の一つとなったというわけです。

石灰岩と鉄鉱石の関係は、ブラタモリでは接触変性という用語で説明されていました。つまり鉄鉱石には2つのでき方があるようで、釜石鉱山はマグマの中の成分であった鉄が石灰岩と接触する過程で鉄鉱石となって出現したとのことでした。

鉄鉱石のでき方 堆積
接触変性(釜石鉱山はこちらの場合)

Webで次のような記事を見つけたので、転載します。出典は「中野 俊(なかの しゅん)」のホームページです。注目していただきたい用語は、赤字としておきました。

鉱床はどのようにしてできたか? マグマ(火成岩)と関係した鉱床 マグマの結晶分化作用:マグマの冷却に伴って,結晶となった鉱物,たとえば磁鉄鉱が密度差により沈降してマグマ溜りの底に集積する.または,液相の不混和現象により,Feに富んだ液相(重い!)が分離沈降する.

分化が進み揮発性成分に富むようになったマグマでは,流体相(さまざまな金属元素を溶かし込んだ水溶液)ができる.揮発性成分が周囲の岩石を高温で変成させる(接触変成鉱床.接触交代鉱床,スカルンともいう).または,流体相が冷却し,その中に溶かし込んでいた金属元素を沈積させる(熱水性鉱床).

岩手県釜石鉱山や埼玉県秩父鉱山は磁鉄鉱,和賀仙人鉱山は赤鉄鉱を主とする接触変成鉱床

堆積性鉱床 砂鉄鉱床:磁鉄鉱を主体とし,その他,チタン鉄鉱・褐鉄鉱・赤鉄鉱を含む. そのほか,輝石・角閃石などさまざまな鉱物を含む.岩石中に含まれていた鉄鉱物が,岩石の風化・分解の結果,河川などにより運搬され淘汰・集積したもの.場所により,山砂鉄・川砂鉄・湖岸砂鉄・浜砂鉄などと呼ばれる.

もともとの鉄鉱物は火山岩(安山岩など)起源または深成岩(花崗岩など)起源. 酸性岩(SiO2成分が多い.たとえば花崗岩)起源の砂鉄は,不純物が少ない.塩基性岩(SiO2成分が少ない.たとえば玄武岩)起源の砂鉄は,不純物が多く,特にTiや Pが多い.

山地の表土中の砂鉄は“残留砂鉄”といい,風化により生じた土砂中に産する.昔,山陰地方で花崗岩が風化したものがたたら製鉄に用いられたが,数%程度のFeを含むにすぎない.

先カンブリア時代の縞状鉄鉱層(BIF: Banded Iron Formation )
溶液として運搬されて(Fe2+を溶かし込んだ海水),化学的(無機化学的または生物化学的)沈殿物として沈積した化学的堆積鉱床.酸化的環境で形成.0.5~3cmの厚さの,チャートと鉄に富む層の繰り返し.一般に,数十mから数百mの厚さの地層となる. 全世界の鉄鉱石資源の約60%を占める.大部分が30~18億年前に形成された.

 

釜石鉱山と南部鉄器とのつながりを期待して調査した結果、両者は直接の関係はなさそうだという結論に至りました。そこで本コラムのタイトルも「南部鉄器」ではなく「南部藩」とさせていただいた次第です。

世界的に見ると、BIF(先カンブリア時代の縞状鉄鋼層)に恵まれた地域から、鉄分の多い鉄鉱石を採掘し、鉄鋼業が発達しました。しかし日本での鉄づくりの主力は、高々10%しか鉄を含有しない砂鉄を原料にした「たたら製法」であったと言えましょう。それではアジアの他の地域は、どのような鉄づくりをしてヨーロッパ文明と向かい合ったのでありましょうか?また新たな疑問が湧いたところで、本コラムを閉じさせていただきます。

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